れとろぐ

後光暴龍天を目指す音ゲーマーれとり(暴龍天)の日常

エンドレス・パン

11月某日-16:30

私はとあるパン工場へ向かっていた。ネットで応募したバイトの面接に受かり、働くことになったためだ。仕事の内容は詳しく説明されなかったが、俗に言うライン作業というものらしい。

京阪に乗り一人お気に入りの音楽を聴きながら、これからどんな仕事をするのだろうとぼんやり考えていた。どこで聞いたということもないが、ライン作業は大変だという話は知っていた。それでも私は、初日なら優しくしてもらえるだろうし、なんとかなるだろうとタカをくくっていた。後に自分がどんな思いをするのか、この時は知る由もなく。

夕暮れ時、駅から工場までの道を歩く十数分で、私はすでに物寂しさを感じていた。友人の居ない土地で働くだけでも、得も言われぬ孤独感がある。見知らぬ土地、見知らぬ建物、人のいない道路、全てが私を冷たく刺すように思えた。前途多難である。

 

-17:00

工場へ到着し、受付に名乗ったところで着替えて説明を待つように指示された。説明は給与に関すること、工場内の部屋の大まかな配置、工場内に持ち込めるものなど、すでに面接の際に聞いたことがほとんどだった。仕事に関しての詳しい情報はほとんど得られず、少しばかり心配になったが、隣にいた同年代の男子の存在で不安は和らいでいた。今日はこの人と同じ場所で働くのだろう、少しは話が出来るかな、などと考えていたが、作業場の配置を聞くとどうやら別の場所らしい。それを知った途端に、和らいでいた私の不安は一気に膨れ上がった。そんな私に構うことなく、勤務開始の時間はやってくる。ええいままよ、後は働くだけだと自分を無理やり鼓舞し、言い渡された作業場へと向かっていった。

 

-18:00

エアシャワーを浴び、繰り返し全身に粘着ローラーをかけて入念にゴミを取り除いて、ようやく作業場へとたどり着いた。はずだったのだが、どうやらまだらしい。作業場は「○○部門」といった形で言い渡されたが、その中も様々に区分けされており、目的の部門にたどり着いても自分が行くべき場所もするべきこともまるで分からなかった。しかし、そんな内情には構うことなく、職員は冷たい視線を浴びせ、指示するでもなく素通りする。この時点ですでに、先程自分を鼓舞した勢いは失っていた。

同じ場所で働くことになっていた女性の力を借り(後ろをついて行っただけなのだが)、なんとか作業場までたどり着いた。まず与えられた仕事は、ひたすら積み上げられた番重(プラスチック製のトレーのようなもの)に入ったコロッケの袋を開け、また積み直す作業だった。番重一つで数キロの重さがあり、最高で自分の身長より高いところまで積み上げなければならなかったため、運動不足の私にはかなり堪えた。ライン作業と聞いていたのに、今日はこんな仕事をずっとやらされるのだろうか、と考えていたが、この後の仕事はほぼライン作業だった。これより楽な作業は殆どなかったが。

 

-18:30

無言でひたすら単純作業をしていると、時間が無限に伸びたように感じる。すでに某サンドイッチ店のバイトでも経験したことではあったが、そこには殆どの場合話し相手が居た。一緒に入っている、同年代のバイト仲間である。しかし、ここには話し相手が居ない。友人がいない。同年代の人間も居ない。仮に友人と一緒に来ていて、同じ作業場に配置されていたとしても、話しながら作業が出来る雰囲気では決してなかった。特有のピリピリとしたムード。少し間違えれば、一気に怒号に包まれそうな空気。ただ作業をしているだけでも精神は摩耗し、時間は何倍にも長く感じられた。

 

-19:00

コロッケの袋を開け終えた私は、ようやくベルトコンベアの前に立っていた。詳しい説明を受けないうちに、突然パンが流れてきた。「パンとって」と言う職員の言葉が聞こえた。しっかりと聞こえたのだ。しかし、それが意味することは分からなかった。勤務初日の人間に、そんな不親切な指示でやるべきことが伝わるわけがない。とってどうしろというのだろう?どこかに置くのだろうか?と考えているうちにもパンは想像を超える速さで流れてくる。そのうち、「耳聞こえねえのか?」と職員は言う。私は「頭についてる初日札(勤務初日を示す札)が見えねえのか?」と言い返したくなったが、それ以上に職員のきつい言葉に萎えていた。帰りたい。今すぐに。

 

作業をするうちにわかったが、最初にパンが流れてきてから準備が整うまで、番重にパンを取って置かなければならないらしい。そういう意味の「パンとって」だったようだ。それなら最初にそう説明してくれよ、そのための時間はいくらでもあっただろう、と思わずにはいられなかった。しかし、心はすでに折れ、歯向かうことなく指示に従うだけの奴隷と化していた私には、それを口にすることなど出来はしなかった。

 

それからの作業は本当に単純なものであった。流れてくるパンにコロッケをひたすら載せる作業。流れてくる細長いパンを五本ずつまとめて別のコンベアに流す作業。パンを一列に並べ、細いコンベアに流せるようにする作業。どれも文字にしてしまえば簡単な作業に見えるし、事前にネットで調べた際もあまり大変そうには思えなかったから応募したのだ。しかし、働いてようやく、私は大きな見落としをしていたことに気が付いた。作業場の雰囲気が、あまりにも悪いのである。単純作業をするにしても、その場の雰囲気次第で感じる苦痛は大きく変わる。同じ単純作業なら、にこやかに談笑しながらやったほうが皆が幸せになれるのではないだろうかと思ったが、どうやらパン工場ではそんな理屈は通用しないらしい。職員同士は嫌味を言い合い、慣れない作業に戸惑いコンベアのパンが詰まって慌てていると怒鳴られ、指示通りにトラブルを伝えても何故か怒鳴られ、とにかく誰も幸せになれない空間だった。地獄。その言葉がこれほどに合う場所がこの世に存在していたのかと驚きを隠せなかった。この世の地獄はパン工場である。

 

地獄で作業していた私は、もう時計を見てはいなかった。時計を見ることすら苦痛に感じたのだ。時計を見れば見るほど、時間は長く感じる。作業に集中し、ひたすら作業の終了を祈った。賽の河原の石積みとはこんな感じなのだろう、とふと思った。現世で賽の河原の石積みを体験したければ、パン工場に行くべきだろう。生きて地獄を体験することが出来る上に、給料がもらえる。嗚呼、なんと素晴らしいことか。

 

-日付変更前(○○:15)

「45分***休憩ね」

そんな言葉が聞こえた気がした。その時が何時だったのか、最早覚えては居ない。***の部分がよく聞き取れなかったが、疲弊した私には聞き返す余裕もなかった。「45分間」なのか「45分まで」なのかわからなかったが、○○時45分までに戻ってくれば良いだろうと思い、30分間の休憩を取った。後に確認すると、休憩は45分間だったらしい。疲弊した脳では、何も気にせず45分間の休憩を取りたいという欲求よりも、休憩を取りすぎて怒られることに対する恐怖心のほうが打ち勝っていたようだ。疲労と恐怖は正常な判断力を失わせるのだと思い知った。

休憩の為に食堂に向かうと、同じ服を着て死んだ目をした人達が何人も、黙々とご飯を食べていた。食堂にはテレビもなく、ラジオも流れていない。食堂にスマホを持ち込むためには自分のロッカーに取りに行かなければならなかったが、ロッカーから食堂まではかなりの距離と手順を経なければ入れないため、実質休憩中にスマホをいじることは不可能だった。現代っ子にはかなりの苦痛空間である。外の世界と断絶された空間。まるで強制労働させられている奴隷のような気持ちを味わうことになり、休憩中も、心が休まることはなかった。

 

-休憩明け

再び、最悪の空間での単純作業が始まった。

パンからジャムがこぼれ出ていないか確認する作業。パンの裏を見る。問題なければ即座に戻す。パンの裏を見る。ジャムがこぼれ出ていればロスの番重へ。パンの裏を見る。問題なければ即座に戻す。パンの裏を見る。ジャムがこぼれ出ていればロスの番重へ。パンの裏を見る。問題なければ即座に戻す。パンの裏を見る。ジャムがこぼれ出ていればロスの番重へ。パンの裏を見る。問題なければ即座に戻す。パンの裏を見る。ジャムがこぼれ出ていればロスの番重へ。パンの裏を見る。問題なければ即座に戻す。パンの裏を見る。ジャムがこぼれ出ていればロスの番重へ。

中身の入っていないコロネのパンを縦に並べる作業。ひたすら縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。縦に。

発狂しそうになる度、京阪で聴いていたお気に入りの音楽を思い出し、人の心を取り戻していた。肉体的な疲労や痛みによって、自分が人間であることを思い出しながら、作業しているうちに、ようやく仕事の終わりが見えてきた。

 

-4:00

すでにここに来てから11時間以上経っていた。体も心も限界が近い。最後のライン作業を終えると、私は床掃除を命じられた。それからは何の指示も受けず、何の注意もされず、ただひたすらにタワシで床を磨き続けた。黒く汚れていた床は本来の輝きを取り戻し、仕事の終わりが見えた私も目に輝きを取り戻し始めていた。この作業が一番、楽しかったように感じた。職員にどやされることが無いこと。自分の作業の成果が目に見えてわかること。しゃがんだり膝をついたりして作業が出来ること。どれもライン作業にはなかったものである。ライン作業をしていたときの数倍早く、時間は進んだ。

 

-5:00

ついに仕事が終わった。自分のロッカーまでの長い廊下で、スキップしそうになる気持ちをぐっと抑える。仕事が終わった途端、不思議と元気が湧いてくる気がした。自由。自由である。自分が日々何気なく過ごしていた日々が、いかに自由で、素晴らしいものだったかを実感した。かけがえのないものが、そこにはあった。

着替えを済ませ外に出る頃には、すでに日が昇っていた。朝の冷たい空気が美味しく感じた。誰もいない広い道は開放的で、清々しかった。帰って布団に入って寝ることを想像するだけで、とてつもなく幸せな気分になれた。何気ない日々のありがたさを感じたいなら、パン工場で働くべきである。日々に感謝できて、給料がもらえる。嗚呼、なんと素晴らしいことか!

紫煙を燻らし自分の労働をねぎらいながら、帰路につく私だった。

 

-明くる日

目覚めた私が寝ぼけ眼を閉じると、そこには驚きの光景が広がっていた。瞼の裏で、パンが、永遠に流れてくるのである。昨日コロッケを乗せたパン。5個一組にしたパン。一列に並べたパン。裏をチェックしたパン。パン。パン。すぐに目を開けた私は、笑うしかなかった。賽の河原の石積みを体験し、何気ない日々のありがたさを実感した代償は予想以上だったらしい。

 

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幸いにして、目をとじると流れていくパンの数は次第に減っていき、最近ではめっきり流れなくなった。しかし、コンビニやスーパーでヤ○○キパンの文字を見る度、あの悪夢を思い出してしまう。最早私は、パン工場で働く前のように、何も考えずに美味しくヤ○○キのパンを食べることは出来ないだろう。ヤ○○キのパンの味に飽きた人には、パン工場のバイトをおすすめする。新しい世界が見られる上に、給料がもらえる。嗚呼、なんと素晴らしいことか!!!

 

(この記事はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。)